2016_5_7

五月に冷房を点けるのは怠惰ですか?

茹だるような暑さだ。どうにも我慢できずについにリモコンを手に取る。暖房設定のエアコンを冷房にスイッチ、少し匂う冷風がこの部屋に春の終わりを告げた。

 

中間期というやつがどこにいったのか探している。中間期というのは空調器具なしで快適な気候の時期のことだ。四季で言えば春と秋がそうで、単純に電気代の節約になるし窓を開けっぱなしで気持ちがいいと良いことづくめの時期だ。探して見つかるものでもないけど、そうしてエアコンを使う日数について考えている。十月から二月までの五ヶ月間が暖房で五月から九月までの五ヶ月間が冷房の期間という計算なら実に十ヶ月間もエアコンを使うことになる。翻って二ヶ月間の中間期がひっそりと存在していることになるが、暦のどこにあるかと三月と四月だ。怠惰な暮らしのスタートラインを切って後、エアコン無しのパッシブな暮らしはあと一年後につづく。

 

短いけど終わり。

限定SSRの小梅ちゃんが出た。18:00ちょうどにガチャを回して投げられたのがSRの封筒、おっと思い小春ちゃんキタコレとタップするとSSRの演出でびびった。あの紙面が虹色のやつ。小梅ちゃんの背景は赤い空で、その時の現実の夕焼け空と完全にリンクしてたことがとても印象的だったと思う。小梅ちゃんかわいい…。

 

 

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久しく見てなかったのだ。視界いっぱいに緑を収めて南湖の松林を歩くのは半年ぶりであり、一年越しの五月の景色を目の前にして暖かな春への感慨深さが増してくる。

 

ここが生まれ故郷であることを付け足して、家族もそこにいるときても、四季の巡りを五感で体感することの方が関心がやや高いらしい。今こうして湧いてくる懐かしさの対象は新緑のみどり色とその匂いなのだ。場所が代々木公園だとしてもその感慨は変わらずにわたしは五月との再会をこうして喜べる。情景描写だけが続くお話には、どこで誰とはあまり関係がない。現実がそうであればフィクションでもそうであり、絵なんかで顕著だったりする。綺麗な背景にぽつねんと女子高生が立ってるだけの構図は多い。こちらは少ないが、ただの綺麗な背景(ギャザの土地カードのような)のイラストは不思議とリツイートが伸びないのだ。絵画であっても同様に人物ないしはキャッチーな物体が風景には添えられる例は枚挙に暇がない。誰かは問わないが誰かがいないと誰も景色など見ない、ということが豊かな情景に対話可能な記号を添える構図が無限に産み出される真相に思えるが、そうではなく単に一人で四季を感じてふむふむ言うことに無理があって侘しいのだと添えておく。

 

 

うまいものをたらふく食べてご満悦って感じだったなあ自分。一日通して三人ともご機嫌だった。家庭の和を取り持つんだからうまいものは偉い。

 

母親がブラック・サバスにハマっていた。還暦からメタルを始めるとは恐れ入る。大人しく今回は棚からビルエバンスのCDを借りた。

両親とはナショナリズムの台頭とシンギュラリティについて一日話していた気がする。変な家族。政治の話におれは詳しくないから雰囲気でやった。シンギュラリティについては原典であるレイ・カーツワイルの本をもらえて満足。代わりにWIREDを教えてあげたら喜んでたのでよしとする。

 

 

 

 

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晴れ。窓を開けると外は夏の陽気らしかった。昨晩の残りと冷凍ごはんを食べたら半袖一枚で駅へ。祝日なのに仕事だ。

 

しばらくして現場につくと、ボスが一人だった。今日出てるスタッフは自分だけということになる。少し間を置いて、どうして働くのかと頭を抱えている。考えてしまう。駅からここまでは住宅街の道だったが、行楽に出かけるのだろう若い家族やカップルがそぞろ歩っていたこともあり、労働に従事しているのはきっとわたし一人きりだと。正確にはボスも働いているから二人か。

 

この日は憲法の日だった。この国では祝日の由来は名前から読み取れることは知られている。名前がその過ごし方や行事のマニュアルというか指針になっていて、こどもの日は曰くこどもを祝う日であり、体育の日は曰く体を育てる日となりみどりの日は曰く緑を愛でよといったあたりがわたしの解釈であり、なるほどと寝て過ごす。気が乗ればビールを飲むなどする。マニュアル人間にはなるな、と曰く義務教育があった。その教えを守り続けている。

 

その日は憲法の日だった。前段の通りに考えれば、憲法をして過ごす日となる。意味が通らない理由を、あと100文字くらいに収めよう。飽きてきたから。はて、一つの線として、恐らくIME変換が壊れているという可能性に当たる。この日記はVAIOのラップトップで書かれており、け・ん・ぽ・う・の・ひ、と入力して変換して憲法の日が得られている。ローマ字入力だからKE.NN.PO.Uであるな。このKE.NN.PO.Uの変換先がつまり憲法ではないという可能性に。であれば手動で正しい変換先を、正しい日本語なんかがあるのならだが、検討を始めてみる。昨日わたしが暮らすはずだった、正しかった祝日のあるべきだった過ごし方を探しに。拳法を振るう、剣法を習う、県報を読む、肩峰とは肩甲骨の部位の名前で、肩関節よりも上にあって外側に向かって大きく張り出した箇所。へえ。飽きたね、おわり。

 

憲法の日にありがたくも仕事をするのも、欠かせない業務の一つなのだ。休ませてほしいと議論する余地は昨晩のメールのやり取りにあったと思うが、直訴の選択権はわたしには見えなかった。新人だから。国民の権利を保障する憲法が機能しているのか、図らず考える日だった。

 

 

いや実際のところ、そんなに文句もないんだけど。鉄骨のロックウールを剥がすなどの現場作業を黙々と進めた。休憩の度にボスと二人で煙草を吸う。ボスの話はいつも面白い。事務所に戻って打ち合わせ。

 

夜から中野へ。友人と飲む。出色の話題、フレームアームズガールバズ・ライトイヤーの出てこないトイストーリーなんじゃないかというもの。今これから見ようと思う。

 

 

 

 

 

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1.朝9時に目覚めてすぐに菊芋を千切りにして水に浸す。沖縄土産のバナナケーキを口にする。

2.スーパーへ買い物。リストは豆乳、インスタントコーヒー、キビ砂糖、大葉、ホタルイカ、鰹の酒盗、ボイルされたあさり

3.二度寝

4.昼過ぎに起きてベランダへ。椅子を置いたらキッチンに戻りアイス豆乳ラテをつくって雑誌とiPodに煙草を手に加えてベランダに戻る。

5.とてもよい天気。夕方過ぎまで半屋外で読書

6.日が落ちたらキッチンに戻り夕飯の準備。今日はあさりのバター炒めと菊芋のきんぴら炒めだった。

7.仕事の宿題。相変わらず設計途中の机の細部を詰めたりだらだらとネットを見るなどする

8.ホタルイカでビールを飲む

9.ラインの返事をする。常にマナーモードなのですぐ返事をしないのが多分よくない、明日はバイブ通知にしておくこと

10.日記をつける。さて以上の通りに過剰さのない、平和な休日そのものだったことがわかった。とりあえずのところ、一日の行動が10の箇条書きに収まるボリュームだとのんびりとしていてとてもありがたい。

 

つまり、とても人間的な一日だったと思えるような日は次のように抽象化できる。10の行動パターンを二十四時間内に行うこと。これより多くては時間に忙殺され、少なくては退屈であると。だからこのキリのいい数字を豊かな人間性であると仮定して、そうした理想の暮らしに思いを馳せてみる。このペースなら一月で300の箇条書きになり一年なら109500の箇条書きが生活の実態としてこのブログに記録される。人間五十年ならば5475000の行動パターンの積み重ねが一生の暮らしそのものであると、計算上は言える。これに従えばわたしはあと2518500の行動を律儀に積めば、立派に一人の人間の生涯を遂げることが可能なのだ。合理的に数字で人間らしくあれる、というこれは救いだ。

 

人間の営みを数字に置き換える指針がここにあり、人工的な暮らしの創出へと足を伸ばす。そうして箇条書きで残した生活のログ、その数5475000にもなる人生の断片を元に個人を模したAIの作成が可能になるのも遠くはなく、SNSの発達しきった人類はこの先テキストデータとして振る舞うことを選択するだろう。

 

残念ながらその手はフィクションであり、まず実現しない。この場合には生身の人間にとって厄介な問題が存在する。死後も日記をつけつづけて、幽体どうしでラインを飛ばしたりすることが日常になれば、少なくともネット上では生者か死者かは判断がつかなくなるわけだから。そうしたフィクションの中では、暮らしは肉体と同時に数字でもある。数字で判断してくれ~、まじでコミュ力重視の世界は滅びてほしい!

 

余談

その人とはSNSで知り合った。花が好きらしい彼の日記にコメントをつける内に相互にやりとりをするようになり、わたし達はなにとなく惹かれていった。最近は彼岸花が好きになってきたと書く彼をユニークだと、その時は思っていた。親密になった異性に現実で会いたいと思うのは、今も昔も変わらない道理で、指定された待ち合わせ場所に花束と、これも指定通りに黒いドレスを着て出向いた。彼に一目でわかるように示し会わせたのだ。さて、GPSでは合っているが、ここは墓地の一角であり初デートの場所とは思えず彼はどうにもやってこない。わたしは道を間違えたかと手元の端末を見やる。不意に新着通知が光った、傍らの墓石に繋がれた無線LANのLEDが点滅するのが見える、彼からのメッセが届く。

 

 

 

 

 

2016_4_26

晴れてたが妙な寒さがあった。半袖はまだ早いようだった。セーター越しの風が冷たかった。春物のコート的な服がいるということになる。でもおれは冬服と夏服しかもってない。春と秋は暑いか寒いか喚きながら過ごしているのが常であり、ぺらぺらとした布地のロングコートなんかが欲しいなあと、多分生まれて初めて思った日が今日だった。毎年この時期に「初めて春物欲しいと思った日」があったかもしれない。秋にも同様に。その日はこれまで一年周期で幾度も巡っているのだろう。わかったわかったと他人事のように諦めて、なだめて、なにかぺらぺらとした服を買おうと思う。

 

予算の下りないリノベをやっている。夕方から家具図。脚に使う鉄の値段が気になったがボスも知らないとのこと。予算内に納まるかどうか心配だ。とはいえお金を食うのは人件費と輸送費であって、自分にできるVEなんてたかが知れてるんだ。かっこいい机を無邪気に描いても平気だと、今は考えておこう。

 

家具設計ひとつで息切れしてたら、住宅設計なら疲労困憊。これは経験済みで、あれは確かに痩せる。そしてもっと大きな案件、公共建築ならプロポーザルで寿命が縮む。プロポはできれば二度とやりたくない。もしもプロポで勝ったとして、実施設計に入ればどうなるか、確実な死が訪れる。

 

今日は、君の銀の庭   という言葉のエモさをとくとくと書こうとしたけど、明日にする。おわり。

 

 

2016_4_24

仕事が終わり新宿へ向かう駅でミュシャ展の看板を見る。ミュシャには特に詳しくもない。アールヌーボーな意匠が好きな人で、画家でありイラストレーターだったとか、今の絵描きが大好きな絵描きだとか、知ってることはこれでおしまい。

 

絵画とイラストの違いって何だろうとぼんやり考えてる。その流通経路かなあ。イラストレーターの描いた絵はパッケージになるから、商業の要請でつくられ見るものに届けられている。商業の原理がつよいも絵はイラストレーターの領域。絵画と呼ばれる絵も、ポスターや表紙になったらイラストの部類になるだろう。デザイナーが介入してるわけだし、大量生産イコール商業であり、切り離せない。

 

絵画の定義が難しい。一品生産?いやウォーホルやラッセンのスクリーンがある。複製技術時代の芸術作品を読んでしまうと、コピーとオリジナルに差を求めるのは馬鹿らしく思える。そうすると、大量生産される絵がイラストと定義した先の話が無効にならないか?

うーむ。

 

絵画とイラスト、両者の違いは展覧会でわかるかもしれない。

 

なんだかステマみたい。明日も強く生きる。洗濯物とパンの匂いは違い、朝食は今日と違わないメニューだろう。きっと桜は散っていて紋切り型の春と明日の季節は異なっている。AとA'のように。明日は何度目のAなのか、A'''''''かもしれない。日常がB面に回る日はいつくるのか。