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2016_4_3

合間合間でも気になる本を消化していきたい。難しいけど、なるべく活字に触れる時間をつくること。娯楽ではない娯楽の時間で遊ぶ感覚を身につけること。

 

でも今日は久々にビールを飲んだので、大分おわりになってる。卒業してからは遊び=飲酒で、酔うことが最大の娯楽みたいになってる。他にすることがないのか?いいことなのか悪いことなのか。

 

中公新書から出てる言語学の教室を半分まで読む。全く知らない領域の話だ。文系の友人は一人もいないので、言語学とは何ぞやと気になっても誰にも聞けなかった。何から読んだらいいかも分からず、虐殺器官を読んで言葉の学問の存在を知ってしまってからは悶々とネットの書評を読み漁っていたわけだが、どれも分厚い専門書で中々手が伸びなかった。というか入門書ほどカラー写真豊富で結果高いというのはどうなの。先週末、ついに何となく読めそうな薄さの本を見つけた。ブックオフの新書コーナーで。すごい俗な入り方をしている。でも、中公新書の表紙は学問らしさがあるカッチリしたデザインでよいですね。難しい本を買った気になれる。

 

認知言語学の入門書らしい。認知言語学とは?半分まできて雰囲気は掴めてきた。でも、ぼんやりとした細部の隠れた理解なのでまだ説明はできない。初めて触れる分野だからじっくり効いてくるだろうと楽観して、明日も読み進めたい。

 

たいがいの学問の雰囲気はデザイン学部の教育で説明できると思ってしまう悪癖がある。他分野斜め読みにこそ我々の強みとボロが出るところだ。今思い出してきた新書の内容は、言葉は事象を分類する道具で、この分類の強弱で言語学の学派は分かれていること。そして既存の言語探求に比べて認知言語学は分類の強弱が違う点があり、白か黒かではなくグレーな裾野の意味まで拾って議論してしまう。そうして言外の感情や認知、人間らしい意味を読みとることがその特徴としてあるということ。

 

うーん。人の感情に向かっては、まともに理性的な探求が本来できないはずなんだ、どんな分野であっても。例えば住宅なんかは無意識の領域の建物だ。藤森照信の講演曰く、住宅に関するコトモノの根拠はどうやら無意識下にあって、誰にも説明がつかない部分が多すぎるので西洋では民家は建築学の議論にはのぼらない、あれは文化人類学者の範疇だ。と言っていた。違うかも知れない。

 

そうして、認知言語学が一体どこまで人間の無意識下を掬い上げ、理解できる言葉へと起こしてくれるのかを楽しみにしている。

たぶん実際もっとドライな中身の本だろうけど、なんだかすごそうとは思ってる。