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2016_4_18

昨日も、今日も晴れ。夏日観測の陽気、らしい。ラジオとツイッターの情報。

 

18日、この日は朝と昼に夜も雑な食事だった気がする。「うまいものを食おう」と言われお金を借りつつ、近場で焼肉屋のランチにありつく。そんな感じ。野菜が足りてない食生活が続くと、恐ろしい結果を招きそうな気がして気が気じゃない。

 

ビタミン不足は現代では考えられないような病気にかかるリスクを増すわけで、いつか罹る気がしてる。でも陽気な妄想として考える。例えば壊血病にかかる自分を想像するとおもしろい。周りがびびるだろうから。この発想がすでに、雑な生活と雑な精神って感じだ。

 

病院にて「中世の船乗りの病気ですよ、どんな生活をしていたんですか」と医者がびびり、「はあ、ジャンクフードを食べていました、雑な肉とか」と応えたい。そんな元気はないかもしれないけど、お前等と同じもん食ってたよとは、動かない体の目で訴えられる文面ではない。黙って目で笑うくらいならできそうだ。

 

元気ですよという意思表示ではなくて、びびるでしょこの症例、という意味を目元から医者には是非察してほしい。

 

親がびびって段ボール箱一杯のオレンジとレモンを送ってくる。中世の船乗りの家庭では一般的に子が遠洋に向かうときにありったけの柑橘類でビタミン類を送るのが、通例だった。ぼくはこれから始まる大航海の予感にときめきながらその箱を開ける。

 

箱に添えられた手紙には「あきれ果てました」との一文があり、ははあこれからは食生活を改め親孝行をせねばなと、思いを新たに脇へ置いたら、レモンをひとつ手のひらに忍ばせて東京の街に繰り出す。今までの親不孝を振り返りつつ、ああ、つまりはこの重さなんだなと腑に落ちたり、将来の不安に急に落ち込んだり、口元に運んだレモンの香りと頬にあたる冷たい感触に少し気が晴れたりしながら、気付くと足は丸善の前まで来ていた。檸檬

 

話しついでになるが、病気や怪我になると昔から笑うくせがついていて、これはあまり得をしない。ことを今思い出した。

 

誰かに見せるために笑うのではなく、なんだか勝手に一人で笑ってしまうのだ。医者や家族の前だろうと他人に囲まれた状態でも構わない習性で、中々治らない頑固なくせの部類に入る。怪我をして瞬間わけがわからずに戸惑い、一瞬の間を置いて自分の怪我に気づく、すると思わず笑ってしまう。また、病気の名前を宣告された場合には、驚きの表情を見せた次に、先ず笑い声をあげる。医者が訝しい顔をし、付き添いの母は顔をしかめる。あんまりいい顔をされないので、神妙な顔をつくろうとすれば、余計に吹き出してしまう。

 

人目を気にしてる場合じゃないくらいにやばいケガや結構めんどくさい病気が発覚した瞬間に多いことから、この笑いの意味や役割を、ぼく自身はきっとこうだと思っている。役に立つための機能であるなら、つまりなにがしかの防衛反応だと。

 

不可逆な悪化を、本能的には笑ってごまかそうとしているんじゃないかと思える。無いものにしようとしている。ギャグですよこれは、と自分に言い聞かせてこころを守るための機能として笑顔があるのでは、と思い、どうにも本能の考えることはよくわからず、そんな悲しい笑いが過去には役に立ったのか、獲得しなくてもよかった機能なのに、と先祖を恨みたくなった。少なくとも、笑っちゃった場合のケガや病気が笑ってごまかせたことはないので、後で本気で悔やむことになっている。そうして反省からやらなくなった行為も多い。二度と跳び箱で前回りはしない、とか小学生のぼくは腕を吊りながら本気で思っていた。今でも、跳び箱を見ると少し笑ってしまう。