2016_5_3

晴れ。窓を開けると外は夏の陽気らしかった。昨晩の残りと冷凍ごはんを食べたら半袖一枚で駅へ。祝日なのに仕事だ。

 

しばらくして現場につくと、ボスが一人だった。今日出てるスタッフは自分だけということになる。少し間を置いて、どうして働くのかと頭を抱えている。考えてしまう。駅からここまでは住宅街の道だったが、行楽に出かけるのだろう若い家族やカップルがそぞろ歩っていたこともあり、労働に従事しているのはきっとわたし一人きりだと。正確にはボスも働いているから二人か。

 

この日は憲法の日だった。この国では祝日の由来は名前から読み取れることは知られている。名前がその過ごし方や行事のマニュアルというか指針になっていて、こどもの日は曰くこどもを祝う日であり、体育の日は曰く体を育てる日となりみどりの日は曰く緑を愛でよといったあたりがわたしの解釈であり、なるほどと寝て過ごす。気が乗ればビールを飲むなどする。マニュアル人間にはなるな、と曰く義務教育があった。その教えを守り続けている。

 

その日は憲法の日だった。前段の通りに考えれば、憲法をして過ごす日となる。意味が通らない理由を、あと100文字くらいに収めよう。飽きてきたから。はて、一つの線として、恐らくIME変換が壊れているという可能性に当たる。この日記はVAIOのラップトップで書かれており、け・ん・ぽ・う・の・ひ、と入力して変換して憲法の日が得られている。ローマ字入力だからKE.NN.PO.Uであるな。このKE.NN.PO.Uの変換先がつまり憲法ではないという可能性に。であれば手動で正しい変換先を、正しい日本語なんかがあるのならだが、検討を始めてみる。昨日わたしが暮らすはずだった、正しかった祝日のあるべきだった過ごし方を探しに。拳法を振るう、剣法を習う、県報を読む、肩峰とは肩甲骨の部位の名前で、肩関節よりも上にあって外側に向かって大きく張り出した箇所。へえ。飽きたね、おわり。

 

憲法の日にありがたくも仕事をするのも、欠かせない業務の一つなのだ。休ませてほしいと議論する余地は昨晩のメールのやり取りにあったと思うが、直訴の選択権はわたしには見えなかった。新人だから。国民の権利を保障する憲法が機能しているのか、図らず考える日だった。

 

 

いや実際のところ、そんなに文句もないんだけど。鉄骨のロックウールを剥がすなどの現場作業を黙々と進めた。休憩の度にボスと二人で煙草を吸う。ボスの話はいつも面白い。事務所に戻って打ち合わせ。

 

夜から中野へ。友人と飲む。出色の話題、フレームアームズガールバズ・ライトイヤーの出てこないトイストーリーなんじゃないかというもの。今これから見ようと思う。